当院について

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挨拶

ごあいさつ

挨拶
福田病院 理事長
福田 弘
1970年(昭和45年)11月に、福岡県南部で、筑紫次郎(筑後川)が海に注ぐ有明海に面した風光明媚であり、又、家具で有名な大川市に開院しました。

現在、我が国に於いては、少子高齢化が進み、今や、世界一の長寿国になっています。この高齢化による医療費の増大(伸び)はやむを得ない、当然の成り行きであります。しかるに、政府は医療抑制(毎年2200億円の減算)を施政方針に打ち出しています。その為、現役世代も高齢者も負担する保険料が増え、世間の不評を買っています。又、医師不足、看護師不足による医療現場の混乱に加え、近年、診療並びに介護報酬の減算改定が繰り返され、医療崩壊寸前のがけっぷちに立たされています。

医療環境の変化、医療技術の進歩という複雑化する状況の中、医療と介護の連携がさらに重視され、地域による永続的な治療体制が望まれている昨今、当院は患者様の病状に合わせ、各医療機関の各先生方と診療を行う開放型病院と救急指定を含む一般病院として地域の皆様へ、より一層充実した医療の提供を図ってまいります。

今後とも地域の為に皆様と共に歩んで行きます福田病院を宜しくお願い申し上げます。




新院長就任のごあいさつ

挨拶
福田病院 院長
福田 秀一
こんにちは。平成28年4月より福田病院院長に就任致しました福田秀一でございます。

ご挨拶に先立ちまして先の熊本大地震で犠牲となられた方々へ哀悼の意を表するとともにご冥福をお祈りしたいと思います。また今も避難生活、車中生活を強いられている10000人以上の被災者の皆様には謹んでお見舞い申し上げます。4月14日の前震、16日の本震はいずれも震度7を超える甚大な災害でしたが、福田病院と致しましては本震の2日後の18日には水、ミネラルウォーター、点滴などの医療品、さらにその後も生理用品等の介護用品一式を被災地に届けることができたことは、せめてもの幸いでありました。また私自身、福岡県医師会より災害医療チームJMATとして5月6日に出動要請があり、福田病院・高木病院の合同チームで出発の準備を着々と進めておりましたが出発の3日前に熊本県医師会より現地医療体制のある程度の復興により出発延期の指令を受け現在待機中の状態であります。今後の被災地支援の取組みと致しましては、福田病院が保有する高齢者賃貸マンションを被災者の方々に3カ月をめどに無償貸与することを法人内で決定し現地に連絡しております。いずれに致しましても1日も早い被災地の復興を願うばかりでございます。

さて改めてご挨拶させていただきますが、私のことをよく知らない、もしくは、あいつはどこの馬の骨かと思われておられる方もいらっしゃるでしょうから、簡単に自己紹介させて頂きます。私は昭和35年に久留米市で生まれ、現在56歳です。私が10歳、小学校4年生の時、昭和45年に父が大川に福田病院を築いたことから私たち一家は久留米から大川に移ってまいりました。私は2年間大川の小学校に通ったのち佐賀の中学高校を経て、久留米大学医学部に入学し、昭和61年に医師となり消化器外科に進みました。その後は大学で講師を務め手術、研究、教育に携わってまいりました。そして今から10年前、平成18年に副院長として福田病院に戻ってきて様々な取組みを行ってまいりました。当時、私は朝3時に久留米の自宅を出て朝4時には病院に着いていました。また夜は夜9時10時に帰る生活だったので当時自分の生活のことを暗い時に仕事に行って、暗い時に仕事から帰るということを暗く行き、暗く帰るという4文字で“暗行暗帰”と4文字熟語を作って「俺って今、ホントに“暗行暗帰”の生活だなあ」と苦笑いしておりました。副院長として取り組んだことは恐らく100近くありますが、思い出深いことは病院機能評価の認定を取れたこと、新しいカルテを作りオーダリングシステムを導入できたこと、職能評価制度と人事考課制度を構築したこと、日本救急医学会認定の公式研修制度を院内で立ち上げたことなどです。あっと言う間の10年でしたが、今年になって4月から父より院長職を引継いだという次第です。

ただ、院長になって最初に感じたことはとてもネガティブなことでした。“私が院長になっても何も変わらない”という気持ちでした。私がまだ副院長だった3月になんとなく私が近々院長になるかもしれないという風の噂は耳にしていたのですが、私が院長になることを直接知らされたのは、たった一回だけでした。3月下旬のある日、事務所の前で私は父と出くわした時に父に呼び留められ言われた言葉が「秀一(私のことです)、来月からおまえが院長やけんな。俺ももう80やけん、もう交代せんといかん。」というものでした。私は院長になることはその時初めて知らされ、別に院長になることを拒んだこともありませんが、4月1日から父は院長から理事長と呼ばれるようになり、私は副院長から院長と呼ばれるようになりました。けれども46年間の病院の歴史の中で、院長、理事長の職務権限とでも呼べるものは規定にも定款にもなく正直何が変わったんだろうという気持ちでした。変わったと感じたことはふたつだけでした。書類の印鑑を押す場所が1つ横にずれたことと、もう一つは多くの職員、業者、親戚、仲間たちが、目をキラキラさせながらニコニコして私に「院長就任おめでとうございます」と言ってくれることだけでした。私は職員から「おめでとうございます」と言われるたびに「なんにも変わらないよ。ただ1・2・3・4の順番が0・1・2・3に変わっただけだよ。なんにも変わんない。」と言い続けてきました。けれども、ようやく大事なことに気づきました。それは「先生、院長になったげなね。おめでとう。」「秀ちゃん、院長げなね、がんばらんばよ。」と病院の患者さんたち、その家族の人たち、そして地元の人々までも同じように目をキラキラさせながらニコニコして私にお祝いの言葉を言ってくるようになった時です。父が病院を築いてこの46年間になんと多くの福田病院を思ってくれる方々、信頼を寄せくださる方々が生まれたんだろうということに気づかされました。大川市には高木病院という大きな病院があります。大川市を、いや福岡県を、いや今や医学部を立上げ日本を代表する病院とも言える高木病院のそばで、この小さな福田病院ができることは一体なんなんだろうと私はずっと考えてきました。そしてその答えは父が、福田の職員が一丸となって、この46年間一生懸命汗を流してきた結果が福田を愛してくれるかけがえのない患者さん、家族の方々、地域の人たちをつくりあげてきたんだということ気づきました。

話は少し脱線しますが、私は実は鳩山二郎大川市長の大ファンです。3年前、鳩山市長が大川市長選挙に立候補した際、当時の鳩山候補が福田病院での朝礼にご挨拶に来られました。初めてお会いした時の鳩山候補の印象は、とても若いイメケンの凛々しい好青年で、言葉は悪いかもしれませんが・・あのアクの強いお父様の鳩山邦夫衆議院議員のイメージとはだいぶ違うなあと感じました。けれども、その鳩山候補のご挨拶を聞くと何と弁舌さわやかで情熱的で、そして何と賢いクレバーな人なんだろうと、すぐに魅了されてしまいました。そして見事当選を果たされたのちは、鳩山市長後援会の催しや大川市の会議や防災訓練、医師会行事等々で鳩山市長のお話を聞く機会を何度も得ることができましたが、鳩山市長が熱く語る市長の思い、市長が取組んでいることを聞くたびに、私は胸がワクワク、ドキドキしました。「きっとこの人なら大川を変えてくれる。この人なら新しい大川を創ってくれる」と思いました。鳩山市長を見ていると何か美しい花を愛でているような、自然に笑顔になるそんな感覚がして、きっと鳩山市長を見つめていた私は、他の人から見れば目をキラキラさせながらニコニコしていたんだろうなと思います。

4月になって、院長に就任して、やがて桜の花が咲き始め、そしてその美しい桜の花を眺めているかのように職員たちが目をキラキラさせながらニコニコして「院長就任おめでとうございます」言ってきた時、きっと彼らも私に対して、何かが変わるかもしれない、新しい福田が生まれるかもしれないと、何かを私に感じているんだなということが伝わってきました。そして今、私が感じていることは、立場云々ではなく、私はただ与えられた使命を、これから全身全霊取で果たし続けることが自分の責務だと思っています。私は、この46年間、福田病院が培ってきたもの、大切なものは、これからも育み続け、変わらなければいけないことには、怯まず、弛まず、驕らず精一杯取り組んで行きたいと思っています。ちょっと古い曲ですが、私の好きな曲に沖縄のグループのオレンジレンジが歌っている“花”という曲があります。その歌詞の中に“だから僕は精一杯生きて花になろう”というフレーズがありますが、私はこれから大川の地元の人たちため、福田の職員とその家族のため、そして福田に関わる全ての人たちのために、精一杯生きて花になろうと考えています。

結びと致しまして、福田を支えて頂いている皆様方への深い感謝の気持ちをいつまでも忘れず、またこれからも皆様のご支援を賜れることを願いつつ、そしてそのご支援に誠心誠意応えて行くことを固く心に誓い、私のご挨拶とさせていただきます。
平成28年5月20日